あなたのピアソラは色気が不在


これまで数回書いてきているピアソラとスケーターの項目ですが、この項目は基本的にフィギュアスケートでのピアソラの表現、というものを確かめるのではなく、「ピアソラを表現するには何が必要か」というのを追求する項目でもあります。まぁ、ピアソラや音楽に限らず「表現をするためには何が必要か」というのでもあります。
今回は別項を書こうと思ったんですが、ヴォロ君のピアソラを見返したら、だんだんヴォロ君に心が向いていったので、ヴォロ君のピアソラについてもう少し話したいと思います。


この記事→http://d.hatena.ne.jp/kurosakiion/20111009で私がセルゲイ・ヴォロノフ君のピアソラに一票入れた理由として、「本人がタンゴだと言っている割にプログラム自体はあんまりタンゴに見えないけれども、ヴォロノフ君の「音楽を表現する能力」によって、「セルゲイ・ヴォロノフの甘くないアストル・ピアソラ」にまで昇華されているように見える」と書きました。まーこれ、私がヴォロの演技が大好きだから、それで出来上がったフィルターなんじゃねーの?って聞かれたら、それはそうですとはっきりと頷きます。
でもちゃんとした理由もあります。四回転がプログラムの中に入っているってことは、それだけで選手の負担になるんです。よく、四回転を決めたけど後半になってばててきた、という選手を見かけます。一つ入るだけで選手の体力を大幅に奪うものなんです、四回転は。
で、前の記事の演技とちょっと見比べて欲しいのがこの演技です。08ユーロのときも、08・09ワールドの時と比べればナンボかタンゴっぽかったんですが、これが一番タンゴっぽいんじゃないでしょうか。

07年エリック杯のフリー。
08ユーロの前半のジャンプ構成が、4トウ→3アクセル→3フリップ→3アクセル+2トウに対し、07エリック杯の前半ジャンプ構成は、3トウ→3アクセル→3サルコウ→3アクセル+2トウと大分違います。後半も2アクセル2回、
この理由は結構前の英文のインタビュー記事に書いてありました。こちら→http://www.goldenskate.com/2008/06/the-character-of-a-champion/ よかったー、まだ残ってた。

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ボロノフは2007年11月、フランス杯で最初のメダルを勝ち取りました。彼は、進行中の怪我により、スケートカナダを棄権せざるをえませんでした。
「今シーズンの初め、僕のゴールは二つのグランプリ大会に参加することでした。しかし、僕は怪我のために、スケートカナダを棄権しなければいけませんでした。最初に僕の左膝はトゥル―プを跳ぶ時に痛みました。そして九月のテストスケートセッションの時にトリプルルッツを跳ぶ際に、足を挫いてしまいました。レントゲンは二つの骨折を写しました。正直に言って、僕は僕の競技生活を終えなければいけないと思いました。」
http://sorachitai.jugem.jp/?eid=32
訳文はこちらのブログ様から引用させていただきました。

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スケオタの間でヴォロ君が慢性的な怪我持ちでルッツを構成に入れられないのも結構知られている話ですね。
07−08年のGPシリーズの日程はスケカナ→チャイナ→エリックでした。スケカナは無理だったけれど、エリックまでには何とか間に合った、という感じでしょうか。それでもクワドとフリップは入りませんでした。(シーズン後半に復活させたのが凄いが)
そこで彼の陣営が取ったのは、恐らく「現時点で出来ることと出来ないことを見極め、出来ることをしっかりとこなす」というもの。そうしてジャンプ構成を落としたら、演技のほうに余裕が出来たのか、比較論ですが08ワールドよりずっとタンゴっぽく、動きにもメリハリが出てるなぁと思うのです。この演技はセカンドマークのIN(音楽解釈)が一番ジャッジから評価され、SP4位からFS2位、総合2位。(ちなみに優勝は今をときめくパトリック・チャン
このときの演技、私はとっても好きです。ホントいい顔してるし。バンクーバーシーズンはプログラムこそ好きだったけど、シーズン後半は見ているのが辛かったので……。


だけど基本的に、彼は「タンゴ」を滑るには甘さがやっぱり足りない(苦笑)。と思います。「タンゴ」としてみるよりも、やっぱり「音楽を表現した何か」なんですよ私にとっては。
正直言ってこの「タンゴ・セレクション」のプログラムを見るたびに不思議な感じになるんですよね。曲はタンゴだけど、ヴォロ君が踊ると「タンゴっぽくない」。色気はない、と思うけどなんだか動きは綺麗。そして「タンゴ」として見るのをやめると、情熱的でいいプログラムだなと思う……。
ただ、個人的に考えるヴォロ君の長所、として、中野友加里さんのスケートに通じるようなものがあるような気がします。「ロシア男子の王道」的なノーブルなスケーティング。そして、さりげない一瞬の動きがとっても美しい。現役時代の友加里さんは、本当に女子シングルの王道を行く伸びやかなスケーティングに、けして派手さはないけれども手の動かし方や目線の使い方、身のこなしに躍動感と品がありましたね。
これは個人的な意見ですが、このヴォロ君の「タンゴ・セレクション」の魅力は、ある種このヴォロ君の持つ「品性」が、「タンゴ」という曲の中で、「色気」として働くのではなく、すっごく微弱な「芳香」として働いたことにあるのではないかと思います。タンゴの中でも、彼自身の持つ「ノーブルさ」はけっして失われていません。色気や甘さはなくとも、それがそこはかとなく演技ににじみ出ている。そうして「音楽を表現した何か」としてみれば、これは「セルゲイ・ヴォロノフの甘くないアストル・ピアソラ」になるのではないかと思います!
いや、この意見は相当強引だと思います。勿論私のこの意見は、「それはあんたの目のフィルターだろ!」っていわれたらそれまでです。でも、外れてもいないような気がしますがどうでしょう。


ええっと、長々と書いていきましたが、
私がピアソラという作曲家を表現する上で重要だ、と思うのは、二つです。
一つは、「タンゴとして表現するか」「タンゴ音楽ではなく一つの音楽として表現するか」という二つの要素をキチンと分けなくてはならない、と思うのです。前の日記で言うところの「タンゴ」として表現したのはランビエールであり大ちゃんであり、「音楽」として表現したのが、ジェレミーやバトルだったのではないでしょうか。特にジェレミーの「冬」なんて絶品でしょ! なんかもう、ハの字眉毛と繊細なスケーティングもあいまって「冬やー」って思わせるもん! 「四季」の中で確かにジェレミーに一番似合ってるんが「冬」だと思うよ!
二つ目は、前者と後者に両方に言えることですが、「これはピアソラである」と見る側に思わせなくてはならない、そして「ピアソラである」と思わせるものを表現の中に孕まなくてはならない、という点です。ただタンゴとして表現するだけだったらそれはピアソラでなくてもいいのですし、後者の場合は表現と音楽が破綻するというもっとひどいことになるんじゃないかなと思います。曲自身の持つ力と本人の力(個性)と説得力。両方があって初めて「ピアソラの表現」になるのではないでしょうか。


ま、結論というよりも、「クロサキイオンがヴォロ君のピアソラが好きな理由」を長々とこじつけた、という感じですね! これは「曲の表現」と彼の持つ甘くない品性、というのが合わさったものだと思います。ワタクシは。


なっが! あ、ここまでヴォロ君のこと長ったらしく書きましたが
彼について二つほど書きたいことがあるので今後の二回の日記は連続してヴォロ君になります。