神劇と呼ばれる所以 ――「宮廷の諍い女」から

去年9月27日の日記で「宮廷の諍い女が面白い!」と「宮廷の諍い女」というドラマについてつらつらと紹介文を書きましたが、
http://d.hatena.ne.jp/kurosakiion/20130922
その「宮廷の諍い女」、今現在、BSフジさんで月曜除く平日に2話ずつアンコール放送しております!
http://www.bsfuji.tv/isakaime/

「皆様の熱い要望にお応えしてアンコール放送を行います!」と告知されたのが去年の11月。初回放送が終わったのが9月下旬のことを考えると、アンコール放送に対する相当熱いラブコールがあったことがみて取れます。
中国本国でもこの「宮廷の諍い女」はリピート視聴率がすさまじいらしく、再放送のごとに視聴率を上げていったそうです。それ故に「神劇(神のような劇だ)」と呼ばれています。
日本のCMでも「女たちの激しい諍いに嵌る人続出!」と言われています。
このいい方には笑ってしまいましたが、でも、確かにそうかもーと思ってしまうところもあり。。
ものがたりの性質が、王道なんだけど王道から外れているようなところがあったりするのが個人的にします。そこに嵌っているのかなぁ。
そんなわけで宮廷の諍い女のいくつかのエピソードを考察。見ていない方でこれから見たい方は、スキップするとよろしいかもれません。


・甄嬛の妹・浣碧と果郡王の関係
後宮を出て尼寺に入る甄嬛が恋に落ちる相手が、皇弟の果郡王なんだけど、後宮にいるころから果郡王の方は甄嬛を助けたり協力したりと、相当な好意を見せていたわけです。後宮時代の甄嬛は、当時から惚れていたかどうかはさておき、側室といえど皇帝という相手がいたから果郡王に対して何か思ってはいけなかったわけです。
ではその果郡王に惚れていたのは誰か。それが、侍女であり腹違いの妹の浣碧。しかし果郡王は浣碧に出会った時から惚れていた。後宮時代の果郡王と甄嬛の関係の橋渡しは浣碧であだった。
浣碧は果郡王に「亜伸は(結婚の相手に)どうだろう?」と勧められてもつっぱねる。果郡王と甄嬛の思いが通じ合い結ばれても、浣碧は一途に果郡王を思い続ける。そして甄嬛が後宮に戻った後、ある一件をきっかけに浣碧が果郡王と結婚する。
……もしこのお話にライトノベル的な要素があったら、尼寺に出た甄嬛が果郡王と無難に結ばれ、そして浣碧と結ばれるのが亜伸だったのではないかと思ってしまう。皇弟と元側室、侍女と従僕としてバランスが取れている、というのもある。そして時間がたって家族が許され、後宮に戻ることなく終わっていたかもしれない。
だが「宮廷の諍い女」ではそうはならない。なぜならば、「宮廷の諍い女」では、諍いの元にもなる欲、誰かに対する飢え、をよく描いている。妃嬪が頼れるのは陛下だけ、という皇太后の言葉のとおり、「陛下の関心を引くために」という大体のところに心を割いていたり、「どうしたらこの後宮で生きていけるか」という生きていくための知恵、その後の行動や心理を描いている。要するに、非常に陳腐な言い方になってしまうが「人間の、人間に対する純粋な思い」をよく描いている。
 ……だからその人間に惚れてどうするかというのは自分の自由だし、好きになるきっかけがなかった男に意味もなく惚れないのだ。
正直いってラノベ読みの私には、今のライトノベルにはあんまり見受けられない感覚なのでかなり新鮮でした。


ジュンガル部のハーンの不器用すぎる甄嬛に対する愛。
ものがたりの最終盤、雍正帝との宴の席で甄嬛はジュンガル部のハーンと再会する。このハーンは甄嬛が果郡王と後宮の外でいちゃいちゃしているころに蛇の毒で死にかけていたおっさんで、助けた甄嬛に対して「美しい」「ジュンガル部の者は惚れたものを何が何でも手にする(うろおぼえ)」と発言します。
このジュンガル部のハーンの再登場が、それまで良好だった皇帝と果郡王、そして表面的は良好を保っていた皇帝と甄嬛との間に明確な亀裂を生みだします。皇帝はハーンと甄嬛の会話を懐刀の人間を使って盗み聞きし、そこから「果郡王と甄嬛は通じているのでは?」と疑い始めます。まぁ、実際通じていたんだけど。
皇帝はジュンガル部のハーンと何かを話したらしい。その後、皇帝はジュンガル部のハーンに甄嬛を嫁がせるという。そこで果郡王が、「それはダメだ!」と考え直すようにとどめる。この時点で皇帝は「果郡王は俺の嬛を好きなのでは?」と二人の関係を疑い始める。
……ここまでのくだりを見ると「わしは好きなおなごは自分のものに絶対すんよ」と言っていたジュンガル部のハーンが「この交渉成立のかわりに甄嬛を嫁に」「果郡王と甄嬛が通じてんよ」等を話したのではないかと思ってしまう。
…………だがそうはならなかった。ジュンガル部のハーンは何を話したかというと、「甄嬛と果郡王は通じていない」と二人の関係を否定したのだ!何故か、それがジュンガル部のおっさんの、甄嬛に対する愛だからだ。
だが果郡王は、甄嬛がハーンに嫁いだと思い込み、甄嬛が乗っている輿を追いかけていってしまう。嫁の制止を振り切って。
つまりジュンガル部のおっさんの不器用すぎる甄嬛への愛は果郡王によってめちゃめちゃにされたわけだ。


・運命の後宮裁判(63話)
「宮廷の諍い女」の真骨頂であるエピソード。これは…………良く出来た話ですよ。私が言うまでもありません。
ただ、63話にたどり着くまでが、結構つらいです。


・無敵のカード、純元皇后
この物語の真の諍い女は皇后だったのだが、甄嬛どころか皇后でも勝てない無敵の存在がいる。それが皇后の姉であり、雍正帝の最愛の妻だった純元皇后だ。物語のはじめの時点で亡くなっており、死してかなり時間がたったにも関わらず未だに陛下は純元のことが忘れられない。
この純元皇后は回想でも現れないので、視覚的な姿が現れない。どんな容姿をしていたか、どんなものが好きだったかというのは、皇后をはじめとする妃嬪たちの証言でのみあらわされている。そして今でも話題に上がるあたりで、視聴者に対して「大いなる不在」という、「姿は見えないけど存在が大きい」印象を与える。
だからここで「純元はどんな人間だったのか」「甄嬛に似ているというが実際はどうなんだろう」という、純元皇后という架空の存在について、視聴者に考える余地を与えているのだ。


・天使は、すぐに、死ぬ
この話はなんといっても「女たちの激しい諍い」に見どころがあるので、常になにかイサカッテいるわけです。だから、天真爛漫だったり無邪気だったりする天使はすぐに死にます。
………………私は淳児が死んだところで「この話もーやだああああああああああああああああああ」と思ってしまいました。。。。
尚、流朱が死んだところでも、「このクソ皇帝が!」と皇帝に対する怒りがわいてきました。


・宦官、その愛が通じるとき
後宮や皇帝の世話役に宦官がいる。ようするに、男性の機能を排除された人間というわけですな。中国では結構昔からおりましたし、宦官によって政治が乱された時代なんて言うのもあります。ものがたり上ですが、WOWOWで放送されていた「項羽と劉邦」でも最初の40話、始皇帝が亡くなったあとは宦官が実権を握っていました。
流朱、浣碧だけではなく甄嬛には侍女がもう一人いる。槿汐というもともと宮中にいた宮女で、的確なアドバイスと細かい気配りができる有能な女性だ。後宮を出て出家した甄嬛についていき、ものがたりの最後まで献身的に甄嬛をささえる。
その槿汐に思いを寄せるのが、陛下の身の回りの世話をする筆頭大艦の蘇培盛だ。もともと郷里が同じという二人で、宮中にいる間は特別親しい、というわけではなかった。
槿汐は後宮に戻ると決意した甄嬛に、「自分が蘇培盛に身をささげる」といいました。蘇培盛と恋愛関係になることで、後宮に戻る足がかりを明確にしようという作戦でした。槿汐曰く「恋愛ができないもの同士の宦官と宮女で慰めあったりする」ということです。蘇培盛がもともと槿汐が好きだったこともあり、実際この作戦はうまくいきました。しかし、大鑑と宮女の恋愛はご法度。見つかれば拷問されヘタすりゃ死罪になります。ある意外な人間の行動で、槿汐と蘇培盛の関係はばれて、二人とも拷問されます。
だけど結果的にこの一件が、槿汐が蘇倍盛に対する愛が通じた瞬間であり、「自分は何かを残すことができない」という全ての宦官が持ち得ている悲しみを浮き彫りにさせたのです。「宦官でも人間なのです」という蘇培盛に、窮地に陥った時にこそ他人の情がわかるのだと実感した槿汐。
いや、奥が深い………。ていうか、最後の方とか、槿汐と蘇倍盛が二人並んだときとか、夫婦としての一体感がすごかったよね。並んだだけで何か一体感があったよね。



…………ふう、まだまだあるけどとりあえず再放送をちらちら見てからにしましょうか。

ただ、ソチオリンピックのフィギュアをとる用に買ったハードディスクが、今正月に一挙放送やった「SUTIS/スーツ」と諍い女の再放送で埋め尽くされそうになっているという。。。。ヤバい。。。
アジア・リパブリックさん。ジャクギの現代版もありますが、今年も良質な中国ドラマをよろしくお願いします。
個人的には酒見賢一の大作であり名作であり超作であり傑作であり怪作である「陋巷に在り」のドラマ化をプリーズ。。。。顔回をユイ・シャオチエ、子蓉姐さんをコン・リー、�呱をチェン・シュアン、悪悦をピーター・ホーあたりでお願い致します。