深見真「PSYCHO-PASS サイコパス」

「紙の本買いなよ。電子書籍は味気ない。」
「本はね、ただ文字を読むんじゃない。自分の感覚を調整するためのツールでもある」
「調子が悪いときに、本の内容が頭に入ってこないことがある。そういうときは、何が読書の邪魔をしているか考える。調子が悪いときでも、すらすらと内容が入ってくる本もある。なぜそうなるかを考える。――精神的な調律、チューニングみたいなものかな。調律する際、大事なのは紙に指で触れている感覚や、本をパラパラとめくったとき瞬間的に脳の神経を刺激するものだ。」
そんなことをこれから紹介する本で書いてありますが、うん。
もちろんこの本にもKindle版がございます。
そんなKindle愛好者に、捧ぐ言葉が上記です!



深見真PSYCHO-PASS サイコパス」上下巻 角川文庫


作中で槙島が紙の本を読むことを推奨していましたが、私も電子書籍よりも紙の本派です。スマートフォンでスライドさせるのは味気なくて好きでないです。ページをパラパラめくる派。

と、前置きはこのぐらいにして。サイコパスる夏に便乗して、深見先生が書いたアニメ「サイコパス」のノベライズ版。
人間の心理や性格的傾向を数値化し、公的に管理され、犯罪係数が上がると「潜在犯」として捕えられ隔離されるようになった世界が舞台。その数値化をするシステムを「シビュラシステム」といい、「シビュラ」によって数値化されたものを「サイコパス」と呼んでいる。
そのシステムを維持するために公安局に集められたのは、「潜在犯」でありながらも同じ「潜在犯」を狩る猟犬として事件現場の最前線に立つ「執行官」と、その「執行官」を監視し手綱を握る公安局のキャリアコースの「監視官」。公安局の新人監視官の常守朱は、先輩の監視官宜野座伸元、執行官の狡噛慎也をはじめとする刑事たちと犯罪に立ち向かっていく。……と言った内容。
ここまで出版社の紹介文を頼りに自分なりに書いてみましたが、シビュラっていうのは要するに犯罪を未然に防ぐためのシステムとしてとても有能で、「あー、あいつやべーなー」「精神がまっくろだなー」「将来的に犯罪起こしそうな思考回路してんなー」等とシビュラが判断したら、そいつは隔離施設に入れられるか公安の特殊拳銃で抹殺されるかっていう末路を迎えるわけですよ。だから芸術分野なんかも、シビュラが「あの作品だめだわー」とか判断したらその作品は存在が抹殺されますし、芸術家を目指したい人間でもシビュラが「あいつ芸術の才能ないわー」と判断したらそいつは芸術家を目指せなくなります。


…………そんなこと言ったら脚本を担当した虚淵玄先生と深見真先生は、色んな意味で確実に真っ先に潜在犯と認定されそうですが


そんなサイコパスという作品ですが、これからアニメ2期が放映されるという前に、1期を新編集版として7月から放送していました。まぁ、2期前に、1期のおさらいと初めての人でもここから入っていけますよ、という感じなのかな。深見先生のノベライズ版は1期の内容がほぼ忠実に書かれています。
こうしてノベライズ版読むと、サイコパス1期というアニメは、映像で深見先生の良さが出せた初めての映像作品なんだなと思ったのと、「あ、やっぱりアニメでは明確に描けなかったフカミン汁が小説版でエンリョなく書いてある!」という喜びがファンとしてあります。王陵璃華子や六合塚弥生のあたりなんてまさにそうですね。後は、これはアニメにもありましたが、例えば泉宮司豊久がかつての戦場を槙島に「あの時ほど生きている実感を感じたことはない」と語ったところとか。ある意味、朱や狡噛よりも物語のずっと中心にいた槙島聖護という人物も、狡噛慎也という主人公も、実に深見先生らしいです。
というかこのサイコパスっていう作品は、私は本当に「深見先生らしい」というところが多々散見できたのは嬉しいんですが、ここで「虚淵先生っぽいところ」を虚淵先生のファンに教えて頂きたく存じます。
それぐらい、深見先生の過去作とかを思い出して「ああ、深見先生の魅力がある」と納得していた作品です。
特にああ、と納得したのは、まぁ百合的部分と、槙島聖護狡噛慎也の関係です。
百合の部分はまあいいとして、槙島と狡噛についての感想と考察を。


作中最強にして、最凶に魅力的な槙島聖護という人物について。彼はどんなに犯罪を重ねても「犯罪係数」が上がらない人物で、しかも隠れるのがうまい。狡噛は結果的に、槙島までたどり着くのに3年かかった。
どんなに犯罪係数が上がらない槙島は、一時的に公安に拘束されることで「シビュラシステム」の正体を知ることになる。シビュラの正体はアニメを見るかノベライズを読むかしていただくとして。槙島はこの時、シビュラを構成する一員、要するに、この世界を管理するシステムならないかと勧誘される。


「僕はね、この人生というゲームを心底愛しているんだよ。だからどこまでもプレイヤーとして参加し続けたい」

この、断りながらシビュラの一員を倒すところは、何となく、「ヤングガン・カルナバル」最終巻の、弓華と塵八が「俺たちは矛盾してて当たり前だ。だって俺たちは、高校生なんだから」と言って物部を倒すシーンを思い出す。物部は彼らの会話で「俺がいれば日本は豊かになる」と言い、シビュラの構成員は槙島に「世界を統べる万能感、優越性」を語っている。シビュラというものが世界そのものなら、物部は「国にとっての自分の価値の高さ」を語っている。
その国とか世界という、自分にとって巨大すぎる何かに対しても、流されずに、「自分はこうありたい」「今の自分の立場はこうだ」ということを理解していたのが、シビュラを前にした槙島であり、物部を前にした塵八と弓華だったと思う。

そんな槙島の行動は無駄なことが一切ない。私はずっと、アニメ1期を見て狡噛よりもずっと細身の優男な槙島があんなに強いのは何故だ、と疑問に思っていた。それはノベライズ版でフォローされていて「ダラダラした時間が時間が極端に少なく、学び、鍛えることで一日のほとんどが過ぎる毎日」と、狡噛が戦いながら推測しているので、恐らくそうなんだろう。下巻の最後の方にある一行だし、それまでの話の中で槙島が強いのは良く書かれていたけれど、その一行だけで彼自身の「強さの裏」が十分に分かる。強いということは、無駄がないのだ。
何をやっても彼のサイコパスは真っ白で変わらないことは、シビュラの目に映らない存在としての疎外感を覚えていたのではないかと狡噛は推測する。そこから「サイコパス」=人間を管理するシステム=「世界」こそが異常なものだと考える。この世界は普通ではなく、「当たり前のことが当たり前に行われる世界が好きなだけ」「この街は普通ではない」そして普通ではない街に、犯罪を仕掛ける。
個人的に。正直言ってサイコパスの世界に住みたいかと聞かれたらはっきり言って嫌です。街頭スキャンで色相チェックされて隔離施設行きとかありそうだし、自分のやりたいことに関して考える選択の幅がせまそうだし、外国っていう概念がないから旅行もいけないし、なにより、飯がまずそうだし。今の現代人の価値観のままサイコパスの世界に行ったら確実に「異常だ」と思う。だが、サイコパスの世界ではあの世界観が日常で正常なのである。だから、視聴者の立場は犯罪を犯す云々を除いて「シビュラを受け入れられない」人間なので、システムから外された槙島とは「あの世界が異常である」ことを共有している。
そんな「普通」の人間が、その「異常だ」と感じる世界で、何を望み、そのためにどう行動するのか。
そんな槙島聖護というキャラクタが、作中で狡噛に匹敵する最強の戦闘能力を持ち、深い知識と深淵な思考能力を持ち、最凶の犯罪者になったのはまぁ当然と言えば当然で、行動に無駄がなく「僕は人間の魂の輝きが見たい」という彼が、作中で一番「深見先生らしい」魅力的なキャラクタだったのも当然と言えば当然。
このノベライズは「後半になると駆け足気味」という感想をたまに聞くけど、私はそのあたりは気にならなくて、何となく、深見先生がアニメでは決してのぞなかった槙島聖護の思考や魅力を描くのに一番力を使っていたのが良くわかったから。そしておそらく、彼を追う側だった主人公の狡噛慎也も、同量の熱量でもって描いていたように思います。


槙島について書くのが長くなったので狡噛については簡潔に。狡噛は執行官落ちした元エリート監視官。3年前の事件で部下の佐々山が追っていた事件の真相を探っていた。佐々山は死亡し、その際に狡噛は犯罪係数を悪化させて執行官に。その事件の裏で動いていたのが槙島だったわけで、この二人にはいろいろあるしお互いに対して執着させていくわけだけどその辺はアニメかノベライズで。
彼もストイックなところが目立つけれど、どんな手段を使っても犯人を追いつめる「肉食獣」としてのクレイジーな所もある。誰よりも槙島に執着し、やがて戦いのさなかに心の中でこうつぶやく。


「俺はお前を切り刻みたいんだ。佐々山がバラバラにされたみたいに、船原ゆきが喉を切り裂かれたみたいに。お前が体中の血を流しつくして死んでいくのが見たいんだ」


――こう考えるなんて、ちょっと病的だぞ。とか思いつつ、戦いの中だからこそ相手の事が良く見え、戦いの中だからこそ相手に対して自分がどうしたいかという、本能が現れる。この心の中で彼は「(元執行官だけど)殺人者を自分の責任で裁く」ことを放棄し、完璧な「戦う犬」になっている。
結局簡潔にいかなかったけれど、狡噛は殺人者=槙島を殺すという務めを果たすために公安から逃亡した。朱に充てた手紙には「誰かを守る役目を果たしたい、そう思って俺は刑事になった。だが槙島の存在が全てを変えた。あの男はこれからも人を殺め続けるだろう。なのに法律では奴を裁けない。俺は刑事でいる限りあの男に手出しが出来ない。今度の一件で思い知った。法律で人は守れない。俺が果たそうとしてきた務めを果たすには、法の外に出るしかない」その後に、ちょっと中略して、こうある。「俺はあくまで身勝手に、自分の意地を通すためだけに、あんたと違う道を選んだ。これが過ちだと理解はしている。だが、俺はきっと間違った道を進むことでしか、今日までの自分と折り合いがつけられない」。
自分と折り合いをつけられない。という台詞がありますが、狡噛は自分と折り合いをつけることで、シビュラシステムというシステムに支配された世界とも折り合いを結果的につけてしまったのでは、とこの辺りを見てふと感じました。ていうのも、狡噛にとってもうシビュラっていうのは、犯罪者を見過ごす上に悪人を裁けないし、人を守れないシステムでしかない。実は深見先生の作品には、強い信念や強い力を持った「世界と折り合いをつけられない男」がたびたび登場する。「ブラッドバス」の入江公威しかり、「ゴルゴダ」の真田聖人しかり。
そんなシステムに、狡噛が折り合いをつけるためにはどうすればいいか。
自分の意地に従って槙島を殺すしかない。
結局この世界で裁く・裁かれるということは、シビュラが全て決めることであって、そこには人間の意思が一切入らない。ドミネーターはシビュラの目だから、執行官でもシビュラが判断しなければどんな悪人だって裁けない。悪人を裁けないこともあるし、守りたい人を守れないことだって多い。だけど、シビュラの判断に従えばいいだけだから、ドミネーターで人を殺したって犯罪の責任を背負わなくてもいいわけです。この辺りは、ゆきが殺されるところで槙島が朱に話していましたね。
槙島の出現によって、狡噛は「人の意思が介在しない世界」と折り合いが悪くなった。自分の信念に基づいて悪人を裁くっていうことは、結果的に狡噛はシビュラの世界と自分を完全に決別させた。


槙島の異常な世界に対する行動の果て。そして狡噛の意地の果て。
槙島は「自分の死に方は、狡噛慎也に殺されること以外思い浮かばない」
狡噛は自分を止めようとする朱に対して「これは俺とあいつだけの問題だ」と言って置いていく。
そういった後の、あの麦畑を見下ろす丘での二人の最後のシーンである。


冷静に考えなくてもこの二人ちょっとおかしいです。ていうか、この二人がまともに向き合って話したのはほんの2回だけなんですよ(地下迷宮での出会いはカウントしません)。ノナタワーでの戦いと、最後の出雲大学での死闘のみなんです。でも、会わない間も互いの事しか考えていないっていうのどんだけ愛し合ってんのとか、ほもくせーとか(本音だよ!)、この二人で薄い本絶対あるよね見たくないけど!とかそういうことを考えてしまうんですが。
でも改めると、この丘の上での狡噛と槙島のこのシーン。非常に、非常に、ひっじょうに、美しい!!!
今まで、深見先生の作品の中でも、美しい戦い、美しい死に際は沢山ありました。私は「ヤングガン・カルナバル」の新沼分隊VS塵八、「疾走する思春期のパラべラム」の尾褄が死ぬ間際に「生まれて初めて人を愛したんだ」と考えたシーン、あとは「アフリカン・ゲーム・カートリッジズ」のクライマックスの九鬼VS竜座なんかが特に大好きです。
………何で深見先生は男同士の闘いやら死に様やら互いしか見えてない様子を書くのがうまいのかしら。不思議だわー。ぶっちゃけこの麦畑での二人だけでも、下巻の価値は十二分にあります。


…………とまぁ、槙島と狡噛について書いていたらなんかそれだけで長くなってしまいましたが。冷静に読み返してこの感想、本当に過去作やらを思い出してサイコパスで「深見先生っぽいなと考えたところ」のこじつけを延々としただけで終わってしまった。共同脚本なのに。すみません。個人の感想だと思ってください。
が、改めてこのサイコパスのノベライズ版。私の感想はともかくとして。2期の前に1期の内容をおさらいしたい方、新しくサイコパスの世界に入りたい方にも十分にストーリーがわかりますので、この機会に是非、是非にとおすすめしておきます。
あとそうそう、個人的に。弥生と志恩の百合がちゃんと名言されていたのが個人的によかったです。
引用は全てノベライズ上下巻からです。


追記
この文庫版で初めて知ったんですが、あの超傑作「アフリカン・ゲーム・カートリッジズ」って絶版されてるんですね。。深見先生の文庫ラインナップに入っていなかった。。。