登場人物は「物語」の中で生きるもの


日記で自分の日常ないし作品の事を書く、というのは最近では抵抗があるのですが(だから最近の日記がスケートだったり映画だったりラノベだったりするわけで)、昔の日記を見るとかなり日常のことも書いていてびっくりする。
でもまぁ、ちょっと書いてみようかという事で、ワタクシの個人的な、作品に対する姿勢というのを書いてみようかと思います。
第一回「登場人物は『物語』の中で生きるもの」


本谷有希子の小説が私は好きなんですけれども(「腑抜けども、悲しみの愛をみせろ」は映画よりも原作の方が好き)、ウィキで調べたら主人公だけではなく登場人物全般に感情移入をしている、と書いてあり、「ああそういう書き方もあるんだなぁ」と新鮮な気分になったのを覚えています。
基本的にワタクシは、ものを書いている時に登場人物に感情移入をしてない、というか、しないものだと思っている所があります。何と言うか、感情移入して、キャラクタが生きなくなることが嫌、感情移入した途端に、自分のキャラクタに溺れるのをワタクシ自身が恐れている所があるからです。
つまり、「作者の妄想だけが暴走して、キャラクタが手段ではなく目的になってしまっている」ものになるのがとっても嫌なんです。そうならないように気をつけてはいるんですが、中々上手くはいきません(苦笑)。
大学の先生に思いきって「文学って何ですか!?」とお尋ねしたところ、「文学は人間で、人間の営みである」という返答が返ってきて、ある意味それが理想系なのかもしれない、と思ったこともあります。
小説という媒体上、必ず登場してくるといっても良いのが「人間」であり、その人間の動きが、ものがたりを左右し、それが「文学」へとなっていくものだ、とワタクシは思いました。そしてそれは、ワタクシが高校や大学の時に好んで読んでた本の大体がそういうのでしたね。酒見賢一の「陋巷に在り」、定金伸治の「ジハード」、井上祐美子の「臨安水滸伝」、深見真の「アフリカン・ゲーム・カートリッジズ」……。
特に定金伸治が書くような、「大きい流れの中で人間が生きていく」小説がとても好きで、ずっと読んでいたので、そういう影響が結構強いところがあります。
逆に、酒見賢一の「陋巷」ではなく「墨攻」とかは、130ページと短く、シンプルな中に革離という、これまたシンプルな哲学を持った人間が描かれていたので、凄いなぁと思ったことがあります。アンディ・ラウ主演で「墨攻」は映画になりましたが、やはり「墨攻」という、「墨守」の反語にも当たる言葉を一番表現しているのは、さけみんが書いた原作小説のような気がするんだよなー。(漫画はノータッチです。)


まー、そんなこと書きながら、サイトに載せてる小説って大体が一人称で短編なんですけれどもね。短編で「大きな流れ」は書けません。書いたら力がないからワタクシの場合破綻するwww
でもまぁ、「キャラクタに感情移入しない」というのは小説を書く上での、ワタクシの最低条件です。キャラクタは皆愛すべきワタクシの子供ですが、それとこれとは別問題。……ここまで書いておいてあれですけれども、実を言うとものがたりを書く上で「登場人物に感情移入する」という感覚が、ぶっちゃけ分かりませんっていうか、意味がわからない。出来る人は、何で出来るの? っていう気分。一回だけやったことがありますが、やるもんじゃないっすね。(苦笑)
あくまでもワタクシの感覚なので、他の人がどうかは知りませんが。。こーゆうことを考えている奴もいるってことです。


……第一回と書きましたが、「第二回」の予定はありません。(爆笑)