萌え、ライトノベル、流行 ――いちライトノベルファンの観点から

今日、ツイッターで作家の橋本紡さんの「半分の月がのぼる空」に関する一連のツイートを拝見し、ライトノベルや物語の書き手に関して少し思うところがあったのでちょっと日記で書いてみようと思います。橋本紡さんがどのようなツイートを残していたかは、彼のツイッターを覗いてみてください。


私が橋本紡の作品を嫌煙していたのは萌えの要素が多いと思っていたのと、作品に対する取り上げ方がそんなに好きではなかったのが多いです。リバーズ・エンド(の3巻まで)、猫泥棒と木曜日のキッチン、流れ星が消えないうちに、の三作品を読みましたが、どれもあまり好きになれなかったのも手伝っていたと思います。(猫泥棒〜はその中でも好きな方です)
ですが、作品の取り上げ方はいわば編集の責任で、萌えの要素が多いように見えた宣伝方法や、もしくはそこにしか物語の面白さを見いだせなかった読者の安易な感想のおかげでしょう。
確かに、作者の伝えたかったことと、読者の受け取り方が違ってしまうことはよくあることでしょう。そうでなかったらおかしいですし、そもそも誰かの手に渡った時点で、そのものがたりは作家のものだけではありません。
ですが、「あたかも「そういう作品」(半月の場合はヒロイン萌えですね)として宣伝され、そういう作品として知らない人にも伝播されていく」というのは、やはり作家にとって耐えがたいことなのだと思いました。そして一番最悪なのは、作家自身が「この物語は私が作者じゃなくてもよかった」と思わせてしまうこと。作家にとっても作品にとっても悲劇ですよ。
だから今回、「電撃文庫」というくびきから物語が離れたことは、作家だけではなく作品にも解放感があったのだと思います。


電撃文庫がメディアミックスに力を入れるようになったのは、編集の三木一馬さんの功績によるものが大きいです。ただ、それも良い方向にも悪い方向にも作用していったこともあるでしょう。
確かに、アニメ等のメディアミックスをすれば、その効果によって本は売れる。アニメを入り口にして、原作をとる読者だっているでしょう。だけどそれだと、アニメ作品の出来不出来によって実は売り上げが左右されてしまうリスキーな面もあるでしょう。
原作の媒体が文章であれば、作品を一番知る手段というのは、やはりページをめくることです。文章のちょっとしたニュアンス、間の取り方なんかを、どれだけメディアミックス作品で伝えることができるのでしょうか。
そもそも「このキャラクタに読者は萌えるだろう」「この作品はメディアミックスされるだろう」なんて想定している作家なんてごく少数なわけで。そうやって想定していたら、例えば「私の男」なんていう作品は生まれないわけです(その「私の男」も二階堂ふみ主演で映画化されるわけだが)。
当たり前だけど、萌え、というのは作品の後からついてくるものであって、それが主要な要素には成り立たないわけです。もちろん、萌えが主要な作品があるでしょうけれど……。少なくとも橋本紡さんは「半分の月が上る空」は違うとおっしゃりたいわけです。


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橋本紡さんのおっしゃる通り、文芸で売れる作家は一握り。今のラノベ出身の文芸作家で本当に売れているのは、有川浩のみでしょう。桜庭一樹は今は数年前ほど勢いがありませんし、秋田禎信オーフェンの続編で本格的に戻ってきました。秋田さんは特に、エンジェル・ハウリング以降は単発でぽつぽつお話を書いてはくださいましたが、富士見時代に比べて明らかに作品は減っています。
橋本紡さんはツイッターで、現在の文芸の現状を話していらっしゃいました。ぜひ読んで頂きたいのですが、ここであえて言うのであれば、今の文芸業界には頭の痛い現状が少なくありません。
ですが、今日でのラノベ出身の文芸作家の偉いところは、「自分だけの武器をきちんと持っている」という点にあると思うのです。
例えば深見真でいう「殺し屋と青春と銃、異形と言えるほどの純粋な同性の愛」という感じ。
桜庭一樹だったら野獣のような少女たち、とか。
有川浩ならベタすぎるラブコメ自衛隊、とか。


書きたいものを書いて本当に生活できる作家は本当に一握りです。「自分の書きたいもの」と「編集側の事情」は違います。文芸で生きていれば、必ず物語上で変えなければならない点も現れてくるでしょう。
だから、その中で自分の中の「本当」をどれだけだせるかが、作家が文壇で生きていけるカギになるでしょう。


また蛇足ですがここで少しだけ。
上記の作家たちの一般文芸進出により、ライトノベルと文芸の境界線は確かにあいまいにはなりました。ですが、本質を考えると全くライトノベルと文芸とはやっぱり別物です。
理由は、私はライトノベルのおもな役割は「漫画と普通の読書との橋渡し」というものとみているからです。今20代30代でライトノベルを読んでいらっしゃる方は、そういった役割を経て、「それでもライトノベルが好きだと言い切れる方」だと勝手に思っています。なぜならば私がそうだから。
「漫画と普通の読書の橋渡し」という、そういった認識は今では古いでしょうが、20代30代の人がライトノベルを読まれるように、中学生や小学生だってライトノベルを手に取られるのです。そういった意識を持たれた作品はごく少数なのでしょうか。
個人的には、今のライトノベル作品を子どもたちが読んで、特に文章的やものがたり的にいい影響を与えられるか、と思うと甚だ疑問を感じます(同じように児童書でも)。正直学校に勤めている友人が「今中学でソード・アート・オンライン流行ってる」といったとき肝が冷えたよ。マジで。
ライトノベルの本質(あくまで私が考える、です)」と同時に「作家の書きたいこと」そして「面白いもの」を両立させている作品は数が少ないです。
そしてそういった作品こそ、大事に読まれていってほしいとワタクシは思います。


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自分のおはなしになってしまって恐縮なのですが、少しだけ。
このブログをご覧になってくださる方はお分かりかもしれませんが、私もものがたりを作っています。できることならば、それをひとつの人生としていきたいとも。
先述したとおり、ライトノベルの流行はめまぐるしく変わっていきます。1年前にあった本がもう本屋にない、ということはよくあることです。
正直なことを言いますと、自分の作風や作品が万人、もしくは現在のラノベ読者に受け入れられるような自信は全くありません。自分の作品が未熟なものである、ということもあります。ですが、自分の中で「流行とは違う、書きたいものがある」という点では負けません。それで読者が付かなかったら仕方がない、とも。たかだか流行、されど流行です。
ですが、流行に乗っただけの作品だけはやっぱり書きたくないのです。
また、やはり強く感じるのは、ライトノベルの流行は割とどうでもいい、と思っているのか、昨今の作品で面白く感じるものがやはり少なくはなってきていると思います。


最近の同じようにライトノベル作家を目指していらっしゃる方々の作品を、ちらちらとですが目にします。そうすると、示し合わせたかのように「流行」というものを気にしていらっしゃいます。もしくは、流行にのっとったような作品が多いように感じます。
時流や時事ネタが得意で、それを持ち味としている方はそれでいいと思います。漫画ですが、銀魂大石浩二さんの作品がまさにそれですね。
では作家になりたい方にお聞きします。その時流や流行に合わせて「こういう作品が、今売れてるorもてはやされているor面白いと受け入れられている」という考えで、無理して作品を書く必要があるのでしょうか。そういったものが、自分の中で無理をせず、自然な形で出てきたらいいのだと思いますが、むりくりひねりだしたものにそれほどの価値はあるのでしょうか。
私の経験上で申し訳ないのですが、「こういう風に書けば多分評価される」「こういう作品を書けばいい」と計算したり思ったりして作品を書くと、大体その作品は失敗します。

だから作家を目指す人には、「評価される」「受ける」「売れる」という他者が自分に与えてくれることを意識するのではなく、自分の書きたいものを書きつつ、「この作品がべつの誰かの目に止まる」「外に出てしまった時点でそれはもう自分だけのものではない」ということを頭に入れて欲しいなと思います。


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結論として……「半分の月がのぼる空」を、とりあえず揃えようかと思います。
だんだん何を書いているかわからなくなってきたので、とりあえずこれで〆たいと思います(苦笑)。