紅玉いづき「ブランコ乗りのサン=テグジュペリ」

紅玉いづき「ブランコ乗りのサン=デグジュペリ」角川文庫

20世紀末に突如都市部を襲った天災から数十年後、震災復興のため首都湾岸地域に誘致された大規模なカジノ特区に、客寄せで作られたサーカス団。花形である演目を任されるのは、曲芸学校をトップで卒業したエリートのみ。あまたの少女達の憧れと挫折の果てに、選ばれた人間だけで舞台へと躍り出る、少女サーカス。天才ブランコ乗りである双子の姉・涙海の身代わりに舞台に立つ少女、愛涙。周囲からの嫉妬と羨望、そして重圧の渦に囚われる彼女を、一人の男が変える。「わたし達は、花の命。今だけを、美しくあればいい」。

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ここ久しぶりに読書の日々を送っている。しかし「汚職刑事が笑いながら拷問する」→「姫騎士を捕まえていじめて屈服させてハートフルスパンキング」→「うふふと笑いながら「野菜/ケツ/突っ込む」を連呼する天才美少年」ときて紅玉いづきさんの「ブランコ乗り」を読み……読了後のまずの感想は、まるで自分がまっとうな読書をしているのではないかという奇妙な感覚を覚える、でした。なぜ私はこんな美しい装丁の美しい少女たちの物語を読んでいるのか。それは買ってしまったからである。
ついでに言っておくといやあ、割と「札幌アンダーソング」はオブラートに包み込めていませんことよ変態性を。

物語は「ブランコ乗り」の8代目サン=テグジュペリの片岡涙海が練習中に大けがをしたところから始まります。涙海は「怪我をした自分の代わりに舞台に立ってほしい」と双子の妹の愛涙に懇願します。そこから一人の男と出会ったところで、姉妹の運命が急速に変わっていきます。
この二人の運命を軸に、同じように舞台に立つ少女たちのが受ける重圧・嫉妬、舞台への恐怖や決意等が潔く描かれていきます。カジノでの陰謀と舞台に立つものの重圧、それによって受ける嫉妬、少女サーカスの団長は何を考えているのか。歌姫のアンデルセンは「妹の方が才能はある」、「でも舞台に立つのは姉だ」といい、姉は「妹の方が才能がある。そんなのはずっとわかっていた」と嘆く。
さて、病室で苦悩する姉と舞台に恐怖を覚える妹の運命は。

「カジノ特区に客寄せで作られた少女サーカス」「そこでは曲芸学校を卒業したエリートの少女が」「文豪の名前を借りて舞台に立つ」という設定ですが、まずカジノ特区というところが健全ではなく、その舞台もまたしかりなような気がしますが、そこを「少女たちが目指す最高にして至上の舞台」にきちんと見せているのは紅玉さんの描く少女のしたたかさと美しさ、そして文章の品のよさでしょう。この曲芸学校が何とも言えずにズカっぽいのがいいですね。(ヅカの学校も2年生だった筈)
この物語に出てくる女の子って、深く悩んでいても決断し、強くなる時に美しくなるというか、その瞬間がどうしようもなく潔く、刹那的で美しいです。刹那的なのは少女たちの特権ですからね!
だからこの最後、姉の方の、本当の8代目サン=テグジュペリが選んだ行動に「いやいや、よく考えれ」と思う大人はいるとは思うし、私はそれを一瞬考える程度には大人になってしまった。しかし「剱山にしか咲けない花はあるのだ」という作中の言葉の通り、一瞬であることが永遠の美へと昇華されるからそれでいいのです。
これからの姉の、8代目サン=テグジュペリに幸あれ。妹にも幸あれ。